ペリーが黒船で来航し、開国必至の情勢であった江戸時代の末期。時の大老井伊直弼が、崩壊の危機にあった徳川幕府再興のため、莫大な額の黄金を赤城山中に埋蔵したとされる。
幕末期、海外との通商が盛んになるにつれて、金銀の交換レートが海外と比べて低かったせいもあり、(国内レートでは金1:銀5に対し、欧米諸国では1:15であった)国内の金が大量に海外に流出していった。
井伊直弼はこの事態を危惧し、幕府の御用金の埋蔵を計画したという。 桜田門外の変で井伊直弼が凶刃に倒れた後、御用金の埋蔵計画は幕府最後の勘定奉行である小栗上野介や、軍学者の林梁らにより実行されたとされている。その額およそ360万両、時価にして数十兆円に値する。官軍による江戸開城の際、場内の御金蔵がカラだったのは史実として残っている。
慶応3年。現在の群馬県赤城村周辺に突如、数十人の武士団と百人あまりの人夫がやってくる。松明を手にした武士団と重い荷物を運ぶ人夫たちが赤城に入っていく様子は当時多くの者に目撃され、さらに村人が炊き出しや道案内の手伝いもしており、実際に彼らが、赤城山周辺で動いていたことは紛れもない事実である。これらのことが、埋蔵金伝説が真実であると確信させる裏付けにもなっている。
明治19年、水野家当主 水野智義は私財を投じ、赤城山麓の一画を買い占め徳川埋蔵金の発掘事業を開始する。智義の義父、中島蔵人は小栗上野介の部下であった。その蔵人は死ぬ間際に智義に秘密を告げて埋蔵金発掘を託す。以来、水野家は三代に渡って徳川埋蔵金を追い続けている。
明治23年、初代智義は黄金の徳川家康像を発見。 その後、近所にある寺の縁の下で、埋蔵金の在りかを記したとされる銅板の地図が発見されるが、大正15年に死去。昭和7年、2代目義治は直径が20メートルもある巨大な石灰の亀を山中で発掘するも、やはり埋蔵場所の特定には至らず。そして現在は3代目の智之氏に引き継がれている。
水野家3代120年間の発掘作業を経て、埋蔵の証となり得る家康像や銅板の地図等様々な手がかりをもとに謎解きをしてきた智之氏。その確信に満ちた眼差しはいまだ衰えをみせることなく、「与えられる」その時が来るまで今日もまた挑み続ける。